これは、考えればきちんと解くことのできる作品です。
昨年の初夏のこと。一人の青年に、「湖岸の盲点」という〈読者への挑戦〉もの(犯人当てではなく、倒叙形式をとった犯人のミス当てなので、こう呼んでおきます)の問題編を渡されました。それにつけられた文章を読むと、〈読者への挑戦〉好きが高じて自分でもそうしたものを書くようになり、友人たちのあいだで食事を賭けて勝負するようになりました――とうれしいことが書いてあります。
〈読者への挑戦〉ものが大好きな人間としては、この挑戦を受けて立たないわけにはいきません。犯人の犯した四つのミスは何なのか? 何度も問題編を読み返しては頭をひねった末、解答を作り上げて送ったところ、幸いにも正解ですとの返事をもらいました。
私は〈読者への挑戦〉ものが大好きですが、作者の術策にはまってしょっちゅう間違える人間です。その私が解くことができたのは、もちろん私の推理力が優れているからではありません(それは絶対にありません)。問題が簡単だったからでもありません(お読みになればわかるように、犯人の犯した四つのミスすべてに気づくのはなかなか大変です)。そうではなく、この作品が「考えれば解ける」ことに徹した作品だったからです。
たいていの〈読者への挑戦〉ものは、「読者に解かれないこと」を目指して書かれます。私が学生時代に属していた推理小説研究会では「読者に解かれない」ためにありとあらゆる奇策が考えられてきましたし、私自身も〈読者への挑戦〉ものを書くときは、絶対に真相を見破られないようにしてやろうと考えていつも筆をとってきました。
しかし、「湖岸の盲点」はそうではありません。読者に対する引っ掛けも、反則すれすれの超絶技巧もありません。あくまでもオーソドックスです。
それは、この作品が、「読者に解かれないこと」ではなく、「読者に考えさせて解かせること」を目的とした作品だからだと思います。真相に至るまでにあれこれ考える楽しさや、真相に至ることができたという喜びを読者に与えるべく書かれた作品だからだと思います。だから、たとえ難しかろうとも、手がかりを丹念に拾い上げて地道に考えれば、きちんと解けるようになっているのです。
倒叙という形式も、「読者に考えさせて解かせる」という目的に奉仕しています。犯人を指摘する作品ならば、当てずっぽうや直感でも真相を見破ることはできるかもしれません。しかし、「犯人の犯したミスは何か?」を問う倒叙ものでは、当てずっぽうや直感の入る余地がほとんどありません。推理することによってしか真相には至れないのです。
そして、ミステリにおいて、「考えて解く」ということは、ともすれば忘れがちですが、とても大切なことだと思います。
この作品にサウンドとグラフィックをつけたノベルゲームを友人たちと作っています――という連絡を作者の青年からもらったのは、今年の二月のことでした。そんな難しいことができるのだろうかと失礼ながら半信半疑だったのですが、やがて完成したものを見せられて、そのレベルの高さに驚き、また〈読者への挑戦〉ものにこれだけの情熱を注ぐ作者たちの心意気に感じました。
最後に、もう一度繰り返させていただきます――これは、考えればきちんと解くことのできる作品です。